しかし、じつをいうと私は村上春樹の本を一度も読んだことがない。
以前、ギリシャ紀行の本を持っていたけど、写真だけみて、古本屋さんに売ったような気がする。
大ベストセラーの本も一度は手にとったことがあるけれど、読めなかった。
ある時期からの村上春樹の作品は変わって来たというので(作家としてはそれが当たり前だけど)その変わって来たあたりの本から読みたい。
本屋さんへ行き、文庫のコーナーでまず手に取ったのは、もっとも私が入りやすい本だった。
村上春樹、河合隼雄に会いにいく (新潮文庫)
この本はかなり昔の本であるにもかかわらず、私にとっては今読むべき本だったようだ。
95年後の対談なので、内容としては「アンダーグラウンド」を出す直前の村上春樹なので、オウムや神戸の震災の話が出てくる。
そしてその頃村上春樹が書いていた小説のことが中心になり、暴力や夫婦について語っている。
さすがに作家の目から表現した河合さんについてのコメントはすばらしい。
『河合さんと差し向かいで話をしていて僕がいつも感心するのは、彼が決して自分の考えで相手を動かそうとしないところである。相手の思考の自発的な動きを邪魔するまいと、細心の注意を払う。むしろ相手の動きに合わせて、自分の位置を少しずつシフトさせていく。たとえば僕がそのとき小説を書いているとわかると、僕を誘導するような可能性を持つ発言はきっぱりとやめてしまう。そしてほとんど関係のない話をする。それでいて結果的に、自然な思考水路のいくつかの可能性を示唆して、その行き先を僕自身に見つけさせようとする。少なくとも僕にはそうんなふに感じられた。』
こうなりたいものである。
ちなみに村上さんは心理療法にくわしくないし、ユングや河合さんの本そのものもほとんど読んだことがなかったとどこかに書いてあった。
この対談の中で河合さんの言葉に非常に感心することも多々あったりしたのだが、暴力について語っているところは興味深かった。
暴力というのは避けるものと私の中では思っているところもあった。
暴力は抑えるものというとただ蓋をするだけだから、抑圧されたものはいつかとんでもない形で出てくる可能性もあるわけだ。
『日本人は、自分の内にあるこの暴力を意識化し、それを適切に表現する方法を見出すことに努めないと、突発的に生じる抑制のきかない暴力による加害者になる危険が高いことを自覚すべきと思います。』と河合さんものべている。
四国なんかではいまでも祭り男たちがわんさかいるけれど、あのケンカ祭りのようなものは危険だけど、必要な暴力なんだろうなと思う。
暴力は火星の力だ。しかし、行き過ぎると冥王星になるのかな。
もちろんケンカをするとか誰かをなぐるという事を勧めているわけではなく、暴力性という力をうまく使えということなのだ。
私は95年ころのオウムのサリン事件や阪神大震災以降の日本はいろいろあってもこれらのことがやはり一番大きいのではないかと思ったりする。
アメリカでは911かもしれないけど。
阪神大震災は河合さんもおっしゃってたけど、日本人は比較的集団で受け止めるので、震災のような自然災害はおそらくみんなが同じような状況になるせいか、思ったよりPTSDは海外よりも少ないということだった。
でもオウムに関しては異例なことだけに、いろんな衝撃があったかもしれない。日本人のトラウマとしていまだに残っている可能性もある。
それは普通に地下鉄に乗っていたり、歩いていたりしてもいつどんなことが起こるかわからないという危機感を多くの日本人に与えた。
危機感はある程度あったほうがいいけど、恐ればかりが強くても逆にそれを引き寄せてしまう。
その後安全だったはずの小学校で子供が殺される事件もあり、日本人の中の安全な感覚は失われつつある。
しかし、村上さんはオウムの事件は「コミットメント」の問題でもあると指摘する。
村上さんの説明するコミットメントは
『人と人との関わり合いだと思うのだけれど、これまでにあるような「あなたの言っていることはわかるわかる、じゃ、手をつなごう」というのではなくて、「井戸」を掘って掘って掘っていくと、そこでまったくつながるはずのない壁を越えてつながる』
そして河合さんは夫婦は「井戸掘り」だという。
もちろん井戸掘りは並みたいていのことではないけれど、こんなところに希望のようなものを私は感じる。
というのは私も井戸掘りの最中だからだ。
というわけでいろんなことを考えさせられた一冊。


